『巨匠』という芝居には、多くの面があり、それぞれの面について考えることが少なくない。たとえばポーランドの近代史、殊に1944年のワルシャワ蜂起、 それに対するロンドン亡命政権やナチス占領軍やソ連軍の態度など。またワイダ監督の映画を思い出す人も多いだろう。 芝居の中心人物は田舎まわりの劇団の俳優で「巨匠」とあだ名されている老人とナチスの将校の二人、 さらに44年当時の俳優志願の青年で後の有名な俳優を加えて考えることもできるだろう。
 ナチスの将校はワルシャワ近郊の小さな町で四人の「知識人」を選んで処刑するためにやって来る。 彼の「リスト」には老人が市役所の簿記係として載っているので、老人は知識人から除外される。しかるに彼は自ら進んで、簿記係は臨時の職にすぎず、本来は俳 優であると主張し、それを証するために『マクベス』の一場面を将校の前で演じる。その演技を静かに見終わったドイツ人の将校は、 丁重な言葉で「たしかにあなたは俳優です」と言い、老人を銃殺すべき「知識人」の列に加える。
 当事者にとっての自由な選択は、簿記係として生きのびるか、俳優として死ぬかである。 一方には平凡な日常性への埋没、他方には日常的な「平和」を超えて、自ら信じる価値を貫こうとする矜持(きょうじ)がある。人格の統一性( integrity)は現状によって定義されるのではなく、その人物(または集団)が現状を超えて何をめざすかによる。 一方の平穏無事には人格の統一性または尊厳がない。しかし他方の尊厳、「一寸の虫にも五分の魂」主義には、ほとんど常に犠牲が伴う。 その犠牲は『巨匠』の舞台が示すような極限情況では死であるが−またそれは2004年の世界での「自爆」の一面を理解するための参照枠組みとして有用であろうが、 常に必ずしもそれほど極端で悲劇的なものではない。たとえば選挙の投票行動はほとんど犠牲らしい犠牲を必要としない。しかし「長いものには巻かれろ」の現実主義か、 「一寸の虫にも五分の魂」の人間的尊厳かを選ぶことができる。
  『マクベス』の科白(せりふ)を暗唱する俳優に注目していた二人の人物はそれぞれ多くの考えへ人を誘う。 俳優志望の青年(後の名優)は、演劇とは何かということについて。しかし91年の「夕陽妄語」で私はすでにそのことに触れた。 独訳のテクスト−老優はそれを携えていた−を聞いて、『マクベス』のせりふを聞いたナチスの将校は、野暮(やぼ)人ではなく、 「教養」人であり、少なくともある程度の知識人である。しかし同時にナチスの凶暴な組織人でもあって、上司の命令に従う。91年よりも04年現在、 私にはこの将校が今都に流行する御用学者や御用記者たちの原型のようにみえる。 『巨匠』という芝居は、たしかに劇場の外の世界の鋭い反映である。 木下順二は権力をもたず、教養と知識に貧しい老人が、権力を買い、教養と知識をもつ将校を、決断の自由において圧倒する、という話を書いた。 どうしてその話が現在の環境の中で生きるわれわれを勇気づけないはずがあろうか。(評論家)